2018年11月27日 (火)

おかしいのはおかしいから

 あっというまにもう「今さら」の話になってしまったけれど、NHKの「AI大喜利」を見た。「師匠」の手のかけ方が「弟子」の腕に反映しているところがいちばんおもしろいところだったかもしれない。大喜利そのものは「ふつうに」大喜利だった(もちろん笑えたし、感心もしたし、何よりその「ふつうさ」こそが成果だったはずだ)。

 とはいえ、素人っぽいところが受けたりする面もある……というか、それが「笑い」の核心なのだろう。たとえば「こういうのは人間では思いつかない」という評価があったりするが、それは「自分には思いつかない」ということであって、他の芸人が思いついてもおかしくはないのだと思う(というか、本当に人間に思いつかないものだったら、そもそも理解不能なのではないか?)──MS-DOSの時代にはやった(今でもある?)「人工無脳」という、ただでたらめに応答しているだけのことにも、人間の方が、相手が人間であるかのように、その反応をおもしろがるものだった。的外れがおもしろかったり、こちらで的をずらして当たっているように思ったり、ラ*バ×だり……

 大喜利がおもしろいのは、答えの違和感に由来するところが大きいわけで、その場その場でAIが他とテイストの違う違和感(人間らしくないところ?)を生み出せば、なるほどAIはそうするかみたいに感じることもあるけれど、それは考えてみると、AIならではの違和感というより、人間がそういう答えを出してもおかしいと思える、やはり人間的な(人間がおもしろいと思う)違和感なのだと思う。というか、AIが違和感を出せば出すほど、人間的なおもしろみになるということで、人間らしい大喜利の答えになっていく。人間はそれを「おかしい(「変」と「笑える」の両義です、念の為)」と感じるものなのだ。

 往年のベルクソンは「笑い」を、人間がなすすべもなく機械のようになってしまう様子に対して生じるものだみたいなことを言っていたけど、これも一種の違和感を指しているように思う。ベルクソンは人間は機械ではないということをいっしょうけんめい言おうとしていたから、違和感の由来をいちばん大きな違和感の元である機械にとったけど、笑いの元としての違和感の元は必ずしも機械ではない。AIはまさしく機械だけど、ベルクソンの想定している機械とは逆向きのもののように思う。笑いは、そもそも人間的なふつうを外すところに由来するのだから、人間が外そうと機械が外そうと、その「非人間性」じたいを人間的なおかしみとして人間が感じ取ることに変わりはないのだ。

 つまり、AIがAIとして仕事をする以上、人間のやっていること(お笑い)をするのだから、「人間のすることは人間のすること」にほかならない。その人間的に通じる違和感をうまく(ふつうに)生み出せるように動作しているところがおもしろいし、立派な成果ではないかとも思う。

 番組の中で千原ジュニアが(この人が弟子AIの名を「千原エンジニア」とした段階で勝負はあったような気がする)、「Ipponグランプリに出してやろうか」とつぶやいていたけど、ぜひやってほしい。ただし誰がAIの分身かはわからないようにして。部分的とはいえ、おもしろいチューリングテストになるかも。

2018年7月 1日 (日)

「〜分前」と「強弱」

なんてことを考えながら、よろづ翻訳承り〼

トートロジーでもあるかな?

2018年3月16日 (金)

可能動詞の憂鬱

翻訳を始めたころはら抜き言葉の是非みたいなことがさかんに言われていて(それ以前からのことだが)、私はら抜き言葉が正しいとは思わないけど、そういうのが求められるのは当然のことで、これは消えないだろうという考えだった。五段活用動詞は可能動詞があるからいいけれど、そうでない動詞について「られる」一本で受身と可能を言い分け、聞き分けるのはもう無理なんだろう、「見る」にも可能動詞がほしいということなんだろうなと思っていた。自分で使うのは気持ち悪いけど、「見れる」と言いたくなる気持ちはわかるといったところ──だった。

 実際のその後の展開は、正規にはら抜き言葉はやはりだめという方向性と(もちろん実際に使われなくなるわけではない)、一方では現実の用法として過剰な「れ」が入る言葉(「行ける」を「行けれる」と言ったり)、さらには過剰なさ入れ言葉(「行かせる」を「行かさせる」と言ったり)の増植となった。「れる・られる」、「せる・させる」という兄弟姉妹助動詞が迷っているという感じになったのだ。が、他方では可能動詞の忌避という事態も招いているように思う*。

 可能動詞の忌避という現象は、校正というところで気になるようになった。可能動詞を「〜することができる」に書き換えるよう求められることが多くなった感じがする。チェックされているところは確かに文意が通じにくいかなと思う面もあるが、これもおかしいの? と思うチェックも増えたように思う。見る→見れるの可能動詞化が停滞して、行く→行けるのもとからある可能動詞もだめ──というか、それではわかりにくいと感じられる──ということになりつつあるのかと思ってしまう。

 五段動詞にだけ認められて、他の活用形ではだめという展開がおかしいといえばおかしいので、正規の文章では形式的に統一しようという方向性なのかもしれないけれど、せっかくある便利な言い方が、形式的ことで使われなくなる、あるいは使えなくなるのはちょっといやだなと思う。これもまた、機械翻訳が統一的に処理しやすい「標準(翻訳)日本語」編成作業が進行中ということなのかしらんと思ったりする。

 そんなことを考えながら、よろづ翻訳承り〼。
 
 何やかやでもう一年近く更新していませんでした。それと比べて更新頻度が目立って高いわけではありませんが、もう一つのブログ「本寂亭つれづれ」もよろしく。


* 付随的に、動詞が英語で言う他動詞か自動詞か、能動か受動かの区別の曖昧化もあるように思う──「○○を爆破する」が従来だと思うが、「爆弾が爆破する」(従来なら「爆弾が爆発/破裂する」)になるとか、「爆弾が爆発される」とか。単に爆発と爆破の混同とも見えなくもないが、類例は他にも──例がすぐに思い浮かばないが──あるように思う。

2017年5月31日 (水)

ひもとく

この手の話のときには毎度言うことだけれど、言葉の古い使われ方とは違う新しい使われ方が生じ、それが世間に承認されればそれが新しい言葉になるという「進化」を否定しようというのではない。長期的に見ればそういうふうになるのはしょうがないと思っている。ただ、変化の途上には抵抗もあって、それを排してでも残るほどの力があるから新しい言葉にもなるのだと思う。ただ、その抵抗があまりにあっさりと崩れているような感じがするとき、やはり残念と思う(私にとって抵抗勢力として頼りにしているのはやはりNHKなのだが、そのNHKでも、となると、残念からげるかい)。

科学史の授業では、昔の「本」は……という話をよくする。多くは巻物で、綴じた本になっても手書きで、それを読むというのは、筆写するということでもあったとか、その類のこと。それが活字による印刷本になると……とか、さらにコピー機が登場し、今や画面上のコピペになると……といった話もある。

それはまあ講師(講釈師?)の整理含みの再構成としておいといて、かつての本は、綴じた本にカバーをつけて紐で閉じて保管していて、その紐を解いて開くのを「繙く(ひもとく)」と言う。要するに「本を開く」という意味(巻物も巻いたものを紐で縛って保管するから同じこと?)。たとえば「三国志をひもとく」なら、三国志という本を開くということになるけれど、「三国志の世界をひもとく」となると、ちょっと違う。

カバーを紐で縛った本や巻物など、意識にも上らない今の現実では、「ひもとく」の本来の意味が失われ、別の意味で使うのはまあ、当然と言えば当然だろう(そういえば、「ページを切る」ももうなくなったか──昔は工程のミスで裁断もれの本があって、ページを切らざるをえない本というのもあったけれど、それももうずいぶん前から見なくなった)。

ともあれ、ひもとくの解くと、解き明かすの解く、解説の解が重なったか、謎を解くに重なったかして、「明らかにする」のような意味の用法が生まれたのだと思うが(もしかしたら、あんちょこ、虎の巻──こういった言葉ももう忘れられている?──を繙いて、答えを見つけるみたいな意味で使うステップがでもあったのかな、などと言うと茶々が過ぎるか)、いくらぼやいて抗っても、もう蟷螂の斧なんだろう(辞書ではまだ古い方の意味しか出ていないように見えるが、そのうち辞書にも載るのだろうと思う)。

意味が変わっても「ひもとく」という言葉が残るだけでもよしとしないといけないのかな。実体を伴わない言葉が形だけ残っていると、別の意味を与えられて使われるという例と考えればいいのかしらん。新しい意味が定着するせいで、古い意味が理解してもらえなくなるのは、やはりつらいのだが……

そう言えば、万葉集の世界には「下紐解く」なんて艶な言葉もあったな、でもこちらの方が今でもわかりやすいかな、なんてことを考えながら、よろづ翻訳承り〼。

2017年2月22日 (水)

見える化……

 最近のニュース番組で、何かの研究者がこの言葉を使っているのを見たのが最初。私自身はこれまで「可視化」という言葉でしか知らなかったことに相当する言葉だということはよくわかる。そのときは、まあ、そういう言い方もあるんだろうな、ある意味、当然出てくるんだろうなくらいの感じで通り過ぎたのだけれど、今日はNHKのニュースの見出しとして「見える化」が出てきた。

 「こむずかしい言葉」を「易しい言葉」にするというのは大事なことで、私自身、英語では何てことのない言葉なのに、日本語の専門用語となるといかにもこむずかしいとなると、易しい方を使いたくなるし、使うこともある。けれども、それがかえってしっくりこないこともあるし、またときによってはそういう言葉があって使われていることを知ってほしい場合もあって、残った選択肢として、解説をつけてでも、こむずかしい方を使うという場合もある。けれども、その「しっくりくる/こない」の感覚には大いにずれがあって、世の中には、たとえて言えば、とにかく「可視化」は固いので、「見える化」にした方がよい(固い言葉はだめ、易しい/易しく見える言葉で)というような圧力があるのを感じることがある。

 私にとって「見える化」は、可視化という言葉がぎこちないからそれはやめてという気落ちはわかるけれども、それを「見える化」にしたからすっきりするというものではないといった位置づけになる。つまり、まだわざわざ「見える化」にすることはないということだ。

 言葉は変わる。進化する。でもそれは環境(時代)に合わせてというよりは、抵抗にさからってということだと思う。言葉が変わる上では、それまでの言葉とのなじみ(相対的であっても)などの言葉の環境との綱引きがあって、それを何らかの形で振り切ることができてしまったものが次の言葉の形を作るものだと思う。私もいつのまにか、その古い(個人的な)なじみを楯に取る、抵抗勢力の側に回っているらしい*。

 気になるのは、「可視化」→「見える化」を生む背景に、「知らない言葉=難しい言葉→使わない方がいい言葉」、「知っている言葉=易しい言葉→使うべき言葉」という感覚があるのではないかというところ。知らないことを知るという方向に行かないで、知っていることを確認して安心するみたいな感じがする。「可視化」なんて言葉は知らない(漢字の意味を追えば/場合によってはしかるべき辞書を引けばわかっても)、「可視」を「見える」に置き換えた「見える化」なら、とりあえず知っている言葉ばかり、だから「見える化」の方がわかりやすくてよい……

 でも、そこで「可視化」という新しい言葉をおぼえるという方向もあるんじゃないか? それが何かを学ぶということの重要な一部なんじゃないか? とやはり思う**。たまたま言葉が気になってそれで書いてきたけど、本当は言葉の話ではない。「見える化」という言い回しに、すべて既知のことですませようという方向を感じてしまうところにが、私にはひっかかるのだろう。知らないことを知って、それを取り入れるという方向を向かずに、何か(知らなかったおもしろいことが)見えるか?

 なんてことを考えながら、よろづ翻訳承り〼

* NHKは言葉については保守的だと思っていたのだが、印象では、NHKがそんな言葉を使うの? と思うことが多くなったような気がする。その意味で気がかりなのが、「言葉おじさん」だか「日本語おじさん」だかの、今時の言葉や言い回しを取り上げて解説するというコーナーをとんと見なくなったこと。新しい言い方を全否定するわけでもなく、でもその言葉にはこういう背景や来歴があるという話を語る姿勢が好きだったのだけど、もうそんなことは余計なことになっちゃったのかなと思ってしまう。これもまた世間に感じる言葉に関する「圧力」の一つ。

**「可視化」/「見える化」という例は、この脈絡では不適当かもしれない。どちらも、私の漢字変換ソフトではまだ、デフォルトの区切りを変えなくてもすぐに候補に出てくる言葉ではない。その意味では、visualizeを表す日本語の言葉は定着したものがなく、競っている段階なのだろうから、「可視化」をおぼえることが学習なら、最初から「見える化」をおぼえるのだって学習ということにはなるのだろうけど、抵抗勢力として言えば、「見える化」には、言葉の作り方に無理があると感じる。

2016年10月12日 (水)

読まない世界の読み物

 今となってはまだ翻訳を始めてそう間もない頃、さる図書館から、利用者の希望があって訳書を音読したものを作りたいという許諾要請があった。いいですよと応じたものの、自分でその本を読んでみると、どうも音読しづらい。書いているときにはもちろん、それなりにつながりや切れ目を考えてはいたものの、音読しやすく、かつ耳から入ってわかりやすいかどうかは考えたこともなかった。

 それ以来、書いた訳文を見直したり、ゲラをチェックしたりするとき、少なくとも自分で見直してひっかかったときには、音読しやすいか、耳から入りやすいかというのもかなり気にするようになった。そちらが優先というつもりもなかったが、そういうふうにして通りやすいなら、目で「読んでも」わかりやすい文章になっているだろうという、大げさに言えばユニバーサルデザインを考えていたつもりだった。

 でも、文字どおりに「読む」ことを前提にした文章は、実際に本に書かれた情報を追う人にはまどろっこしいものでもあるかもしれない。さっと総覧して、ひっかかりなく入ってくる情報が多ければ、その方が「読みやすい」と感じられるのではないか。とくに、雑誌のようなスペースの縛りがきついところで翻訳をすると、とくに音読しやすさを考えるなどというぜいたくはできない。どれだけ短く圧縮できるかに目が向いてしまう。それでも気になるところは気になるので、字数を増やさずに言い換えるすべを考えるが、そうなると、原文との対応という点でははしょる部分も増えてしまうのは避けられない。

 何だか、世間からは求められていないところを気にして、見当違いの手間をかけてきたなと思ったりもする、翻訳を始めて30年後の秋……とはいえ、まだまだよろづ翻訳承り〼

2016年7月29日 (金)

わからないことはわからない

だから調べてみる必要があるんです、と『ガリレオ』の湯川先生は言うし、それは正しいが、場合によっては、調べてもわからないことだってある。科学でもわからないことがある。それこそ神秘ではないか。

 でもそれはあくまでも「わからない」ということであって、「科学でもわからない何か」ではない。「何か」ということになると、そこにいろいろな名がついて、その名で呼ばれるものがあることになる。その「○○」ではないことが証明できなかった(わからなかった)以上、その「○○」はあるんだろうというように。でも「わからない」はそういうことではない。

 同じことだけれど、「未確認××」はある。これは紛れもない事実。あるとき、頭の先がとがって、蛇のような眼、首のところがくびれ、太い胴体に細長い尻尾の(よく絵で見かけるツチノコの形の)動物を見た。捕まえて正体を確かめるまでは、何だかわからない以上、これは未確認動物だ。そんなふうに、未確認××は日々どこにでもある。ただそのとき見たものが、未確認で正体がわからないから、未発見の/伝説の存在(たとえば「ツチノコ」)だというわけにはいかない。「わからないものはわからない」であって、何かではない。あたりまえのことなのだけど、人間はそういう状況はあまり得意ではないらしく、たとえ恐怖の対象であっても、「何か」として捉えようとする。「わからない」よりも「怖い」のほうがまだ安心できるみたいに。

 そうして「わからない」に何らかの名を与え、それだということにして、存在することにされているものはいろいろある。「わからない」ところに直感的に○○という未確認の筋書きをつけるのがヒューリスティックとさえ言えて、availability heuristicsなんてのもある*。もちろん正規には、直感的につかんだことに確かめるというプロセスを加えて、ちゃんとした筋書きや理論に仕上げることになるのだろう。

 ともあれ、「わからないことはわからない」で、何かではない。調べてみて確認できたら、初めて「何か」になる──それが想像に反したつまらないもの/ことであっても。私が見たあの「動物」は、結局、側溝に入って、くんくんあたりを嗅ぎながら、のそのそ這うように歩く暗褐色の縞ネコを上から見たところだった。確認すればそういうことになるが**、それがわかるまでは未確認の正体不明の状態。ネコだとわかるまではツチノコだったとか、そう確認できる前に姿を消していたら、既知の動物とは思えなかったからあれはツチノコだったというわけにはいかない。わからないことはわからない……ヒューリスティックの行きすぎに警報を出すトートロジー?

* 何かよくわからない対象を「見た」とき、とりあえず手近に思い浮かぶ名前や筋書きで解釈するということ──「ツチノコ」と思う人もいるし、「イタチ」と思う人もいる。実際に何なのかはわからなくても。

** だから、わからないまま(神秘のまま)にしておいたほうがよいといった感覚もよくあると思う。たとえば科学が謎を解明したりすると、余計なことをしたことになったりする。月にウサギがいないことがわかって、世界はまたひとつつまらなくなった、みたいな。確かめられないから想像する余地がある。わからないことに想像で答えを思い描いて、それがあることにしておいた方が楽しい場合は確かにあるのだろう。でも、想像でなら認められるという限定付きのことが、往々にして想像の外(現実)でも通用すると錯覚してしまうと、往々にして困ったことになる。

2016年6月22日 (水)

より!

 とある語学講座番組を見ていたとき。講師が生徒に例文を見せてどういう意味か尋ねると、生徒は比較級に気づいて、「もっとなめらか」ということだと答える。すると講師が、ああ、いいですね、ここは「よりなめらか」という意味ですねと応じる。生徒が、たぶん自然な日本語で「もっとなめらか」と言っているのに、それを先生が「語学学習用語」で「よりなめらか」と、「訂正」というか、規格に合わせるかのような流れ。

 「より」は「こっちはそっち「より」なめらか」という、比較の対象を含んだ言い方から、欧米語の比較級を表す記号として取り出した言い方だ。文法構造としての比較級を持たない日本語でそれに相当することを通則的に表そうとした場合、本来前にあるものを受けての「より」を、後ろの形容詞や副詞と組み合わせて表すというのは、学習対象言語の仕組みを表す記号としてはやむをえないと思う。語学番組なのだから語学のルールを明らかにするのは当然と言えば当然のことだとも思う。

 けれどそれは語学学習上(あるいは原書講読などのときの内容把握/説明の効率上)の都合であって、「よりなめらか」という日本語表現が自立的にある(あった)というわけではない。あくまで、「あっちより」なめらかなのであり、比較の対象抜きの自立した言い回しとしては「もっと」なめらかのほうが自然だと思う。ときには「おいしくなって新登場」のように、「なる」で表すのがふさわしい場合もある。「前はまずかったのか?」とつっこみを入れたくなることもあるが、もちろん意図は「前よりもさらにおいしい」ということで、ヨーロッパ語にするなら、「おいしい」と「なる」に相当する語を組み合わせるのではなく、比較級を使って表すべきところだろう。

 この手の話は、結局自分の身にふりかかってくることなので、心して語らなければならないのだけれど、未熟な者がそれでももっとよくしようと目指す方向の話ということでご理解いただくとして……原文の組立を「よりなめらか」、「よりおいしい」といった符牒を援用して把握したうえで、その組立で表される内容を、場面にふさわしい日本語にするとどうなるかを考えて、「もっとなめらか」にしたり「おいしくなった」にしたりするのが翻訳だと私は思う。

 「より」の場合は、たとえば『広辞苑』にも「(ヨーロッパ語の形容詞比較級の翻訳として助詞「より」から転じた語) さらに。いっそう」とあるくらいで(「翻訳」としてではなく「学習用語の転用」としてだと私は思いたいのだが)、成立の事情をふまえつつ、もう日本語になっていると認められているのだから、それが日本語の現状として追認すべきだということかもしれない。私には気になる言い回しも、使っている方々にはごく自然な日本語として映っているなら、とやかく言うべき筋合いのものでもないのだろう。

 それでも、きれいに整った訳文の中に、そういう学習上の都合で習った記号にすぎない言い回しを規則的に適用した(ように見える)訳文に出会って、ああ、と思うことがある。たぶん、それがもう定着してしまっているんだなと感じるのがいやなのだろう。あるいは、それがきっと今の、身につけておくべきルールや約束事をふまえて手順どおりに作られた、整った、きれいな翻訳ということなのかもしれない。お互い習ったことがあれば、あああれねと理解できて、適切な作業が行なわれているように見えるし、逆にそういう約束事に対応するものがないと、ちゃんと訳しているのか?とあやしまれたりもするのだろう。それに何より、自分も気づかないで符牒を機械的にあてはめたりもしているのだろうけれど。

 「翻訳する」に相当する英語はtranslate。これは平行移動/移し替えという単純作業だ。ルールをおぼえてそれを適用すれば、機械的にtranslateされた訳文ができるという考え方なのだろう。私は(意識の上ではほかの翻訳者もたぶん)、翻訳の仕事をそういうものとは思っていないので、フランス語のtraduireの方が、まだしっくりくる。何かの回路を通すということで、ブラックボックスに入れてがちゃがちゃ振るだけのことだとしても、ただの平行移動ではない、言わば組み換えがあるように感じるから……ブラックボックスだって、魔法の箱というわけではなく、本当は、何らかのアルゴリズムに沿った仕組みがあるのだけれど、比較級だから「より~」という訳文を吐き出すといった平行移動の移し替えよりはちょっと複雑だと思う。

 そういう思いは翻訳をするようになってからずっと抱いていて、世に経るにつれて、自分の中の基準も、揺れたり修正を加えられたりを重ねてもいる。また、否定的に感じるあまり、逆方向に意地を通して窮屈になったりもする。考えてもせんないことながら、学習用規則が適切な日本語として定着するほど濫用されることのなかったレトロフューチャリズムを夢想することはある*。

 ただ、最近、もうちょっとこのことを意識したほうがいいと思うのは、人工知能が無視できない存在になりつつあるからだ。たぶん、急速に成長しつつある人工知能は、大量の訳例をふまえて、対応関係を学習しつつ、最終的には人工知能が学習したルールに沿って機械的に置き換えるのだと思う。その参照すべき訳例が、語学学習用記号に寄ったtranslationなら、人工知能が吐き出すtranslationも、その類になるだろう。従うルールが単純でバリエーションが少ないtranslationほど、たぶん機械のほうが人間よりもうまい(同水準のものでも、早く、たぶん安く作れるという点で)。人工知能翻訳の学習対象から語学系に出てくる言葉を外せば、機械翻訳は私の感覚にとっては「もっと自然な」翻訳になるかも(もう手遅れか)。

 平行移動的規則には合わない側の翻訳が増えれば増えたで、それも学習できるのが人工知能だろうから、人間の翻訳者がうかうかしていられないのは変わらない。それでもtraductionをまねするのには、もうちょっと時間や手間がかかる(と思いたい)。

 機械に勝てるかどうかは予断を許さないけれど、ひとまず、Je suis traducteur, pas "translator". ということで、まだしばらくは、よろづ翻訳承り〼。

*映画「ラヂオの時間」の一場面。ナレーターが、脚本にある「上を見上げた」というナレーションに対して、「上を見上げる」は意味がだぶっているのでおかしいと注文をつける。脚本家は、しぶしぶ受け入れつつも、隣のプロデューサーに「上を見上げるって言いません?」と確かめ、「言いますよ」と言われ、「言いますよねえ」と、ますますナレーターの意見を不満に思う。原理に基づいて適否を決めるか、現にみんなそう言っているんだからいいじゃんとするか。現実はつねに両極の中間にあるけれど、私はやはりナレーター側に共感する。

2016年6月 2日 (木)

原因と結果の入れ替え(「女の理由」)

 私の関心を惹く「トートロジー」あるいは「ヒューリスティックなトートロジー」と言っているものは、原因と結果を入れ替える(結果と考えられていることを原因と考える)ことに大きな意味があるようなものである場合が多そうだ。たとえばシェイクスピアの言う「女の理由」(『ヴェローナの二紳士』)*。「そう思うからそう思う」は、何かの理由があって「そう思う」という結果が生まれるのではなく、まず「そう思う」ことが出発点にあって、その結果、その人に対するすべての評価が決まるということ。「好きだから好き」は、好きであることは、何かの原因(理由)があってその結果として好きだというよりも、「好き」という原因(理由)があって、その結果として、相手に対する全ての評価となるというようなこと。つまり、「そう思う」、「好き」が、何らかの前提から出てくる帰結なのではなく、言わば証明無用の「公理」として立てられたということだ。そこに「なぜ」は要らなくなる。証明抜きで何かの原理を見通し、立てるのだから、それこそヒューリスティックでもある。

 人間原理もそう。「観測者が観測する宇宙は観測者の存在を許容するものである」は、観測者(つまり人間)が存在することが、めったにないパラメータの配合の結果とするなら、そう配合したのは何かという、永遠にさかのぼらざるをえないか、どこかでデザイナーに訴えるかするしかない原因探しを、「観測者がいる」を前提にして、宇宙はそういうふうにできている(生まれる)ものと考えることで、現実の宇宙についてのモデルを生むことになる(とされる)。

 「変異を伴う継承」という(ダーウィン的)進化論もそう。生物世界の多様性、複雑さについて、なぜこんなに多様なのか、種が分かれるのか、複雑になるのかという問いに対して、生命は変化するから変化すると言っているようなもの。変化し、すべてが次につながるわけではないから、残る変化が偏り、また変化し……となる。そこには何の意図も目的もなく、何かの結果としてそうなるのではなく、そうなるからそうなる。それを公理の位置に置いたことがダーウィンの(意図してかどうかはともかく)起こした革命だったのだと思う。

 「光速一定の原理」も、「光速を測れば必ず光速になる」ということ。なぜどう測っても光速は一定なのかと考えて、その原因となるエーテルの特性や原理を考えるのではなく、光速を測れば必ず一定の光速になることの方を原理に立てて、そこから得られることをこの世界のあり方として導き、確かめることになる。何かの結果と考えられていることを、ある意味でとくにこれといった根拠もなく、アイデアとして原因の側に置くことで、新しい世界像が生まれる。

 元祖ヒューリスティックの「静止した水は動かない」はどうなるか。そもそも何かの原因を考えていたという脈絡で出ているのでもなさそうなので、ちょっと微妙な感じもするが、つまるところ作用・反作用の法則を立てているということなんじゃないかと思う。これも公理として立てるしかないことだろう(なぜ作用と反作用があるのか、なぜその向きは正反対で大きさは同じなのかとは問えず、そうなっているからそうなっているとしか言えないという意味で)。

 どうしてそうなるかが言えない以上、そうでないことも考えることはできる。考えることはできるけど、実際にそれで成り立つかどうか(帰結は確かめられるか、世界や社会は維持できるか……)、どれがいいかをつねに確かめ、よりよいものを選ぶしかない。そのこと自体が公理なのかもしれないけれど……これは単なる堂々巡り? 「女の理由」の原語は「a woman's reason」。woman's reasonが一つなのか、a woman の reasonなのか。「私個人(ある女)の理由(理屈)」という意味と考えれば、まさしく公理の選択ということになるのだが。


* 「女の理由」というのはシェイクスピアの登場人物のせりふを引用したラベルで、男もそういう「論理/理屈」をとることがあるのは当然のこと。小田島雄志は「男は見栄をはって、あとから思いついた理由をくっつける。女の場合、素直に『そう思うからそう思う』と言い切る。それだけのちがいである」(岩波ジュニア新書『シェイクスピア名言集』)としてこのせりふを名言と言っている。やはり男と女の違いを言っているとはいえ、この規定には魅力を感じてしまう。とくに(男であれ女であれ)「あとから思いついた理由をくっつける」というところに。

2016年4月 8日 (金)

「人はロボットのオシリを触っても興奮する」

という内外の記事をいくつか見た(標題はギズモードジャパンの記事の見出し)。元の発表予定論文はそう単純な話ではないようだが、これを面白い話として取り上げる意図は、人間がロボットと「人間的に」つきあう(つきあえる)ことを示すという解釈のように見えて、そうであれば、ちょっと違うと思う。相手がロボットでもお尻に触れば……というのではなく、お尻(と思える部分)を触ると興奮するというふうに反応するのが人間というもの。丸が二つ並んでいればひとまず眼や顔と認識するといった原始的な反応の延長上にある現象だろう。

 つつくといろいろやばいことが出て来そうな言い方だが、ごく簡単にまとめてしまえば、「人間とは人間に見えるものである」。チューリングテスト(の理念)が拠って立つのはその認識で、これをヒューリスティックなトートロジーと言っていいと思う。だから人工知能やロボットが人間的になれるか(さらには好きになれるか)というのは問い方がずれている。人間的に見えるように(好きになれるように/嫌いになれるように)作りたいか(作るべきか)ということだろう。ロボットに危険な作業をさせたり、場合によっては「犠牲」にならせたり(映画「インターステラー」の人工知能)することが想定されれば(逆に松任谷由実の「VOYAGER」に出てくる、任務のためには「傷ついた友達さえ置き去りにできる」存在にするには)、人型(人形)ではまずいことになるはず。ただの人形だって捨てるときには心が痛むのだから。それに外見が違っていてさえ、機能が人間にかかわるなら結局は感情移入してしまうものだ。人はそうやって、何かの対象を擬人化して「つきあって」いる。

 ロボットのだろうと人のだろうと、「お尻と認識されるものはお尻」なのだ。それを触ればそれなりの反応をする。この研究から(部外者として)読み取るべきは、ロボットがそこまで人間的になったとか、逆にお尻なら何でもいいのかとか、人間とロボットの区別がつかないと困るのではないかといった話ではなく、人は簡単に何かを人扱いし、したがってつきあう相手とも見るし、さらには味方とも敵とも見るだろうということだ。人間的に作っているのであれば、当然人間的に扱うものだろう。

 人間的に見えるものを人間的に扱って、お尻と見えるところに触ればちゃんと興奮するのが正しいのか、実は機械だからという知識によって機械・道具として扱うことが正しいのか──というよりむしろ、そんな扱いができるのか。結局、機械と人を区別できるのか、できるとすればどうやって? ということになってくるのだが、そういう映画は見かけるけれど、現実社会ではそういう話はあまり見ないような気がする。私の見る世界が狭いということなのだろうけど。

«独創性とは独創的なものである